ヤリイカ姫

                                  田中 六大

 

 

 

 

少し涼しい季節になった。天気はいいのに風があって肌寒い感じだ。このシャツじゃちょっと寒かったかな。とキヨシは思った。キヨシは大学をサボって図書館に本を返しに行く途中だった。

図書館へはいつも小さな森を通っていく。実際は大通りを通っていくほうがはるかに近道だったが、森はちょっとした散歩をするのにちょうどよい場所だった。運が良ければリスを見ることもできた。

森の中を歩くと、地面に敷き詰められている枯れ葉が乾いた音を立てた。かさかさ枯葉の音を楽しんで歩いていると眼鏡が落ちていた。ただ、掛けていた眼鏡がぽろっと落ちてしまったような雰囲気で落ちていた。しかし、実際はそんなことはないだろう。掛けている眼鏡が落ちたら必ず気付くはずだから。

キヨシが前を見ると、続いて靴が落ちていた。そしてジャケット。ズボン。シャツ。下着。靴下。順番に等間隔に並んで落ちていた。下着の横を通り過ぎながら、キヨシは次に落ちているものが、想像できた。(たぶん、裸の人間だろう。なにか、事件だったらいやだな。血だらけで倒れていたり・・・。)そう思って前を見ると、

思ったとおり裸の男がいた。ただ、予想しなかったのは男の腰から下が土に埋まっていることだった。まるでそこから生えてきているようにしっかりと地面に埋まっていた。

怪我も何もしていなく健康そうだが、じっと固まって、目は開いているが何も見ていないようだった。がちがちに固めている口髭は、漫画の詐欺師のように左右にピンと撥ねていた。正面を向いてちょうど万歳をしているようなかたちで両手を挙げていた。

キヨシは目だけはじっとそっちを見ながらも、顔はしっかり前を向いて、まるで何も気付かなかったようにそしらぬ顔をして通り過ぎようとした。

「君!」男はキヨシに声を掛けてきた。「今、私がここで何をしているのか疑問に思わなかったかね?」やけに声が大きい男だ。

「え?ええ・・・。まあ・・・。」キヨシは仕方なく答えた。

「私にそれを質問しても無駄だよ。」

「はあ・・・。」

「なぜか分かるかね?」

「いえ・・・。分かりません・・・。」

「私は木だからだよ。大木だ。植物は喋らんからな。質問されても何も答えることが出来ないのだよ。」男は勝ち誇ったように言った。

「あーでも、今喋ってますよね・・・。」

「君は少々失礼だね。私はね、君が質問しても何も答えることができないだろ?で、君は困るだろう。そうならないために禁を破ってまで、先に教えておいてあげたのだよ。」

「はあ。」

「私がなぜ、木になったのか分かるかね?私は、ヤリイカ王家の16代目として生まれてな。1月生まれだったが、私が生まれたときには盛大な宴会が開かれたものだ。ヤリイカ国にいる全ての人間が城に呼ばれて、一週間以上徹夜で大騒ぎしたのだよ。思いつくことのできる全ての美味しい料理と、果物がみんなに振舞われたのだ。西瓜もあったのだぞ。豪華生バンドの演奏や、フレンチカンカン、奇術ショーが入れ替わり立ち替わり行われて、国民の間で何年も語り継がれる宴会だったそうだ。私はある種の天才児でな、三歳のときにはすでに読み書きが・・・。」

「あの・・・失礼ですけど。」キヨシはたまらなくなって言った。

「ん?なんだね?」話を中断されて、明らかに不機嫌な顔で男は言った。

「とてもありがたいお話の途中で申し訳ないんですけど、そのお話は結構長く続きますか?」

「もちろんだよ。これから、私が美しい少年期と楽しい青年期をすごし、立派な紳士になった後、いかにして植物になるに至ったかを話すのだからな。」

「あの・・・すみませんが、ちょっと先を急いでいるもので、もう行きますね。」

「ん?何を急ぐことがあるのだ?少年よ。」

「いえ・・・図書館に行こうと思ってるので。」

「図書館の閉館時間は5時だろう?まだまだ時間はある。」

「はあ・・・でも、ここは寒いし・・・。」

「なに言うか。私は裸でいるんだから、もっと寒いんだぞ。」実際すごく寒そうだった。見ているだけでキヨシも寒くなるような気がした。

「まあ、そうでしょうね・・・。」

「そうとも。それに、何時間もひとりで植物になっているということはとても退屈なことなのだ。分かるかね?話し相手がほしいのだよ。」

「あー。そうですか・・・。でも、やっぱ僕は今、図書館に行きたいんで、もしよかったら、そこの雀を話し相手にしてはどうですかね?」

「なんだと?雀?・・・なるほど。それはいい考えだ。君は若いのに賢いな。うむ。さすが図書館に通うだけはある。さ、そうと決まったら君はさっさと図書館に行って勉学に励みたまえ。『少年追いやすく楽なりがたし』と言うからな。これは、少年は足が遅いから後を追うのは簡単だけれど、なかなか楽にはなれないという意味だ。わかるかね?」

「その通りですね。よくわかります。では、さようなら。」相手にするのがめんどくさくなって、早口でそういうとキヨシはさっさと図書館に向かった。後ろでは、男が雀に向かって「おい、雀。聞きなさい。私が植物になった訳を。」と話す声が聞こえた。

 

 図書館は森を抜け、小さな雑貨屋を通り過ぎて「トカゲ通り」を渡ったところにある公園の隣にある。図書館の前には噴水があるが、水が出ているのを一度も見たことがない。白いジャンパーを着たきれいに禿げ上がったおじいさんが、ねずみ色の犬を連れて噴水の前を散歩していた。おじいさんはキヨシを見て軽く会釈をした。駅前の古本屋の店主だった。いつも店にいるときは深緑の毛糸の帽子を被っているので、印象が違って見えてすぐに気付かなかった。そういえば、今日はあの古本屋の定休日だ。キヨシも軽く会釈を返して図書館に入った。

 図書館の中は暖かく、大きな窓から入ってくる柔らかい日差しも暖かさを強調していた。返却カウンターに本を返すと、キヨシは図書館をぐるっと見渡した。平日の昼間なのに人が結構いる。学校をさぼって制服姿のまま本を選んでいる女子高生や、窓際のソファーで寝ているスーツ姿の男。子どもを連れた主婦も多い。大きい机のところに目立つ金の冠を被った女の子が新聞を読んでいるのを見つけた。ヤリイカ姫だ。

「ヤリイカ姫。」キヨシは近づいていって名前を読んだ。

「ああ。キヨシ君。元気?」ヤリイカ姫はにっこり笑って言った。ヤリイカ姫はヤリイカ王国から来たお姫様だ。キヨシの住んでいるアパートから少し歩いた商店街の先にある細い道を入ったところにある大きな洋館に一人で住んでいる。キヨシもしょっちゅう図書館に来るが、ヤリイカ姫もかなり来るようで図書館で会うことは多い。

「さっき、変な人に会ったよ。」キヨシは言った。

「へえ。どんな?」興味津々で、目を輝かせてヤリイカ姫が聞いた。

「なんか、森の中で全裸になって体半分を土に埋めてるおじさんなんだけど、自分のことを植物だと言っていて、しかも、ヤリイカ王家の16代目だとも言ってたよ。」

「へえ。面白いおじさんだね。ヤリイカ王家の16代目は、行方不明になっているから、名前を騙る人や、自分がそうだと思い込んじゃうちょっと頭がぱーの人がときどき出てきたんだよ。」と、ヤリイカ姫はさすがに、ヤリイカ王家のことについて詳しい。

「そうなのかあ。16代目っていったら、姫のおじいちゃん?」

「いや、ひいおじいちゃん。」

「じゃあ、年齢が全然違うね。40代くらいのおじさんだったからね。」

「そうだねえ。16代目が生きてたら、90歳以上だからね。名前を騙る人が出てきたのも40年くらい前がピークだったみたい。」

「そうなのか・・・。まあ・・・いろんなやつがいるんだねえ。」

「ね。」

「・・・僕もなんか読もうかな。」そう言うと、キヨシはマガジンラックから「季刊夕暮芸術」という雑誌をとってヤリイカ姫のはす向かいの椅子に座って読み始めた。この雑誌は、2年前は月刊だったが、隔月になり季刊になり、やがて無くなる日も近いと思われた。本屋ではほとんど売っていない。

 図書館を静かな落ち着いた空気が包んだ。窓の外で雀が鳴く声が微かに聞こえる。

「ねえ。この記事すごいね。」ヤリイカ姫が読んでいる新聞を指差して浮かれた声で言った。「町に住む浮浪者を一箇所に集めて、その臭いのエネルギーを使った発電の実験だって。これが実用化されれば、近年の電力不足がかなり解消されるらしいよ。」

「へえ。臭いってエネルギーがあるんだねえ。」

「そうみたいね。家畜の排泄物を使った発電なんかもあるからねえ。」ヤリイカ姫は新聞を見ながら言った。

「あれは、メタンガスを燃やしたりしてるんじゃないの?」

「そうかあ。じゃあ、これも浮浪者を燃やすのかな。」

「いや・・・それはないと思うよ。」

「そうか。あ。ここに、浮浪者の臭いをエネルギー化することにより、これからは臭くない浮浪者が街にはびこるだろうって書いてあるよ。」

「それは、いいことだね。」

「うん。いいことだね。」ヤリイカ姫は微笑んで言った。

 二人は、浮浪者の臭いについて話し合った。浮浪者にはいろいろなタイプの臭いの人がいる(キヨシは陸上部の部室の臭いを、ヤリイカ姫は腐ったジャガイモの臭いを例に挙げた。)という話や、浮浪者の臭いの原因は下着を替えていないからなのか、という話をした。しばらく話をした後ヤリイカ姫は「今日はシーツを洗濯する日だから。」と言って、家に帰っていった。確かに洗濯日和だった。ヤリイカ姫と別れた後、キヨシは「世界の風見鶏」という大型の本を本棚からとってきて、窓際の日のあたるソファーで読み始めた。

 

ヤリイカ姫は庭に出てシーツを干していた。ヘリコプターの音を聞き、空を見上げて太陽の眩しさに目を細めた。芝生のところどころに生えているカモマイルのいい匂いがした。物干し竿に干した白いシーツの影が芝生の上に落ちる。開けっ放しの門から、チェックのシャツを着たロバが入ってきた。

「やあ、ヤリイカ姫だね。」ロバは言った。

「そうだよ。そして君はロバだね。」

「俺はね、今はこんな姿をしているけど本当は悪い魔女に魔法で姿を変えられた可哀想な王様なんだ。」

「へー。どこの国の王様なの?」

「ロバの国だよ。」自慢そうにロバは言った。

「じゃあ、もともとの姿もロバなんだね。」

「まあね。でも、もっと素敵にかっこいいロバなんだよ。」

「ふーん。本当はもっとかっこいいんだ。」

「素敵にかっこいいんだよ。」ロバは訂正した。

「ああ。素敵にかっこいいのね。」

「そう。素敵にかっこいいんだ。」

緩やかな風がヤリイカ姫の頬をなでた。風は芝生を滑ってカモマイルの匂いを立ち上げるとともに、さわさわと涼しげな音をたてた。

「・・・で、呪いをかけられたロバの国の王様は、私の家に何しにきたの?」

「もちろん、君に呪いを解いてもらうために来たんだよ。」

「・・・私が呪いを解く力を持っていると思う?」

「もちろん。お姫様だからね。」

「本当に申し訳ないんだけれど、私は呪いを解く力をもっていないの。」ヤリイカ姫は本当に申し訳なさそうに言った。「たいていのお姫様は、呪いを解く力を持っていないと思うよ。」

「そんな!じゃあ、誰なら呪いを解く力を持っているの?」突然青ざめた顔になって、ロバは叫んだ。

「よく知らないけど、シャーマンとか魔女とかじゃないのかなあ。」

「・・・そうか・・・・・・困ったな・・・俺は大きな間違いをしてしまったようだ・・・。」とても悲しそうにロバは小さい声で言った。

「そうみたいだね。」ヤリイカ姫も同情して、悲しそうな顔で言った。

「実は・・・言いにくいんだけど、この呪いにはとても恐ろしいおまけがついているんだ。」ロバはおちつかない様子で蹄を芝生にこすりつけた。

「おまけ?」

「そう・・・。俺がこの呪いを解いてもらうよう一番初めにお願いした人にも、恐ろしい呪いがかかってしまうんだ。」

「ええ?どういうこと?」

「まあ、つまり、ヤリイカ姫、君にも呪いがかかってしまうんだよ・・・。」

「えええ!私もロバになっちゃうの?」

「なんだか、失礼な言い方だな。ロバが嫌みたいじゃないか。・・・残念だけど違うよ。もっとずっと恐ろしい呪いなんだ。巻き込んでしまって悪かったね。ヤリイカ姫・・・。」そう言ってロバは長いまつげを伏せてとても悲しそうな顔をした。

 

 今日は晩御飯を食べる前に、キヨシは銭湯に行くことにした。タオルと手拭いと石鹸とシャンプーと下着と髭剃り・・・銭湯セットを持ってアパートの鍵を閉めると、とんとんとんと、リズム良く階段を降りてのんびりと銭湯へ向かった。あたりはまだ少し明るかったが、もうすぐ陽が落ちるだろう。学生服を着た顔がにきびでいっぱいの高校生らしき少年がテニスラケットを担ぎ、自転車でキヨシの横をすいーっと通り過ぎた。

 銭湯はかなり空いていた。もっともキヨシは混んでいる銭湯を見たことがなかったが。料金は、また値上がりしていた。(こんな値段だから人が来ないんだ。)とキヨシは思ってから、(いや、人が来ないから値上がりしたのかな・・・。)と思い直した。各家庭にお風呂がついている現代は、公衆浴場の時代ではないのかもしれない。でも、広い風呂もいいものだ。キヨシはわりと銭湯が好きだった。

 すこし長湯しすぎてのぼせ気味で外にでると、女湯から濡れた髪をまとめたヤリイカ姫がフルーツ牛乳を飲みながらでてきた。今日は冠をしていない。

「あれ?ヤリイカ姫。」キヨシは驚いて声をかけた。

「ああ。キヨシ君。また会ったねえ。」ヤリイカ姫はにこにこして言った。

「姫の家ってお風呂あったでしょ?」

「それがね、今日、呪いをかけられたロバがきて・・・」ヤリイカ姫は簡単に昼あったことを説明した。

「ふーん。それで姫も呪いをかけられちゃったんだ・・・。大変だねえ。・・・だけど、それと、銭湯と何の関係があるの?」

「うん。それがね、その呪いというのが本当に恐ろしい呪いで、私の家のお湯が出なくなっちゃったんだよ。」

「ええ。お湯が出なくなるっていう呪いなんだ。」

「うん。水はでるんだけどね。」

「そうかー。なんだか、不便そうだね。恐ろしいかどうかよくわかんないけど。」

「恐ろしいよ。本当に恐ろしい呪いだ。あー。恐ろしい。」ヤリイカ姫は眉毛を八の字にして、恐ろしいと思っていることを表現した。

「お湯は、いつになったら出るようになるのかね?」

「ロバの呪いが解けたら、私の呪いも解けるんだと思う。」

「でも、姫もフルーツ牛乳飲んだりして、けっこう銭湯生活をエンジョイしてるみたい。」

「へへ。まあね。」ヤリイカ姫は大切そうにフルーツ牛乳を一口飲んだ。

「そのあと、そのロバはどうしたの?」あんまり美味しそうに飲むので、自分も飲みたくなってキヨシは今度銭湯に来るときはフルーツ牛乳を飲むことを心に誓いながらキヨシは聞いた。

「なんか、この街でもうしばらく呪いを解いてくれる人を探すとか言ってどこかに去っていったよ。」

「この街、そんな人いるかね?」

「さあ。」といって、姫は肩をすくめた。「神社の神主さんとか?」

「そうだねえ。でも、神社は和風の呪いには強そうだけど、魔女の呪いには歯が立たないかんじがするよね。」

「和風の魔女かもよ。藁人形で呪うような。」ヤリイカ姫は小さくあくびをして言った。

「いやあ、魔女って言ったら洋風な人だよ。苦瓜みたいなでっかい鼻で三角の帽子かぶった人。」キヨシがイメージできる魔女のタイプはひとつだけだった。

「ホウキに乗って空を飛ぶひと?」

「そうそう。大きな深い鍋で黒いスープを作っている人。」

「そういう魔女も素敵だね。呪いは嫌だけど。」そんなに嫌でもないような顔でヤリイカ姫は言った。

「そうだね。まあ、どっちにしろ、早く二人とも呪いが解けるといいね。」

「うん。」名残惜しそうにぐびりと最後の一口を飲み干してヤリイカ姫は言った。細い道に等間隔で立っている街灯に蛾が群れていた。

「そのビン返すんだよ。」

「え?そうなの?それじゃ、ちょっと返してくるよ。」

「うん。僕これから飯作るから帰るね。」

「今日の晩御飯は?」

「今日は、豚肉の生姜焼きにする。」

「わお。美味しそうだね。」

「姫は?もう食べたの?」

「うん。チンゲン菜で野菜炒めつくって食べたよ。」

「そっちもいいじゃん。ああ。おなか減ったー。そいじゃ、湯冷めしないようにね!」

「うん。おやすみ!」微笑んでヤリイカ姫は言った。

「おやすみ。ヤリイカ姫。」

 

 ヤリイカ姫が家に帰ると、ロバが門の前に立っていた。

「いろいろ迷惑かけた上に悪いんだけど、もうしばらくこの街で呪いを解いてくれる人を探したいから居候させてくれないかな?」そう言うとロバは、ヤリイカ姫がまだいいとも駄目とも言わないうちに家の中に入った。

ロバはヤリイカ姫の家に寝泊りすることになった。ただし、家の掃除と皿洗いはロバがやるということとがヤリイカ姫の出した条件だった。

もともとヤリイカ姫の家はお城のように広くて、そこに一人で住んでいたので空いている部屋はたくさんあった。カナリアの部屋まであるほどだ。一階にあるあまり日当たりのよくない部屋がロバの部屋になった。二階や三階に、もっと広くて日当たりの良い部屋が空いていたのだが、ロバが階段を嫌がったのだ。

「この部屋、良いけど本がたくさんあるね。」ロバは部屋を見渡して言った。

「書庫として使ってたからねえ。」そこらへんから適当に本を取り出して無意味にぱらぱらとめくりながらヤリイカ姫は言った。

「ずいぶんたくさん本を持っているんだね。」

「昔からこの家に置いてあるんだよ。読んだことない本ばっかりだけどね。とりあえず、こうやって本を隅のほうに寄せて空いたスペースに寝てくれるかな?少しずつ一緒に片付けよう。二階や三階だったら、片付けなくても使える部屋もあるんだけど・・・。」

「うーん。それでも、やっぱりこの部屋がいいかな。階段は上り下りが辛いから。悪いね。わがままを言える立場じゃないことは分かってるんだけど。」と、あんまり分かってないような調子でロバは言った。

「いいよ。ちょうど片付けようと思ってたところだし。」にっこり笑ってヤリイカ姫は言った。

 

キヨシは部屋の隅っこに座って壁にもたれて、図書館から借りた「世界の風見鶏」を読んでいた。自分の狭い家の中ではこの場所が特に気に入っていて、ここに座っていることが多かった。CDでヨーロッパの中世の音楽を聴いていた。

じりりりり。電話が鳴った。「はいはいはい。今出るよお。」電話にそう話しかけながら、CDのボリュームを下げてキヨシは受話器を取った。

「はい。山野です。」

「もしもし、ヤリイカですけど。」ヤリイカ姫の声がした。

「もしもし。ああ。姫。」

「やあ。おとといはどうもねー。もう寝てた?」

「まだ、9時だよ。本読んでたよ。」

「そうかそうか。良かった。なんかね、あれから、ロバがうちに居候することになってね、そのために昨日と今日で、二人でけっこうがんばって部屋を片付けてたんだけどね。」

「へえ、ロバ、今ヤリイカ姫の家にいるんだ。」

「うん。今はダイニングでテレビ見てる。テレビが珍しいみたい。」

「へえ。ロバの国ってテレビがないのかな。」

「そうみたい。たぶんね。・・・あのね、部屋を片付けてたらね、ロバがちょっと面白いものを見つけたんだ。」

「え?何何?」

「あのさ、一昨日、図書館でヤリイカ16世のこと話してたじゃない?」

「ああ。森のなかの変なおっさんのね。」

「そうそう。その16世についての研究本みたいなのが出てきたんだよ。」

「へえ。」

「けっこう古い本で、字が小さくて挿絵があんまり無かったから、ちょっとしか読んでないんだけど、16世の人生がけっこう詳しく書いてあって面白そうなんだ。」

「へえ。面白そうだね。こんど見せてよ。」

「うん。見せる見せる。そうだなあ。明後日なんかどう?」

「うーん。明後日は日曜かー。今週の土日はバイトがあるんだー。」

「あら。バイトやってるんだ。どんな?」

「うん。最近始めたんだけどね。倉庫の片付けみたいなやつだよ。楽だよ。」

「そうかそうか。楽なバイト、いいねー。」

「うん。時給はあんまりよくないけどね。うー。8日か9日は、どう?」キヨシはカレンダーを見ながら言った。

「うううーん。どっちもだめだー。8日はサッチャンとご飯食べる約束しちゃったし、9日は友達の個展を見に行くからなあ。」

「合わないねー。それじゃあ・・・ね・・・。14日はどうかな?」

「ああ。14日は大丈夫だ。うん。じゃあ、それでいこう。それまでにもうちょっと読んでおくよ。読み終わったら貸すから。」

「うん。ありがとう。えーと、どうしようか・・・。図書館で良い?」

「うん。いいよー。図書館で。」

「何時ごろにする?」

「うーと、お昼食べて・・・2時頃がいいかな・・・。まあ、テキトーに。」

「わかった。じゃあ、14日の2時頃に図書館で。」

「うん。おやすみ。」

「おやすみー。」

 

ロバは毎朝8時頃家を出て、街中歩いて呪いを解くことができそうな人を探した。神社や教会、占い師の店、交番や市役所、寿司屋、デザイン事務所など考えつくいろいろなところを回ったが、呪いを解くことができそうな人物はいなかった。一時前に家にもどって、ヤリイカ姫の作るご飯を食べた後、二人分の食器を洗ってから、こんどは電話帳で呪いを解けそうな人を探して、かたっぱしから電話をかけた。

ロバが外にでている午前中は、ヤリイカ姫は体操をしたり、庭の植物に水をやったり人形を作ったりしていた。ヤリイカ姫が作るのは布人形で、中に綿をぎちぎちに詰めるのでけっこう硬い。家から10分くらい歩いたところにある「ミツバチ」という、絵本や木でできた子供用のおもちゃや楽器、蜜蝋ねんどなどを売っている店や、電車で二十分ほど行ったところにある人形専門店に置かせてもらっていた。ヤリイカ姫の作る人形はなかなかの人気で、一応それが売れたお金で生活していた。

 午後は、ヤリイカ姫はたいていどこかに散歩に行った。図書館に行くことが多かったが、森を散歩してどんぐりを拾ったりすることもあったし、お気に入りの喫茶店にもほとんど毎日行った。キヨシの住んでいるアパートの近くにあるパン屋でアルバイトをしている丹野サチコという女の子と仲が良かったので、サチコのアルバイトが無い日は二人で買い物に行ったりすることもあった。

 呪いを解ける人を探したり、電話をかけたりする気がしないような日には、ロバもヤリイカ姫といっしょに散歩にいった。一度、ヤリイカ姫とロバとサチコの三人で、サチコのバイト先のパン屋の向かいのイタリア料理店でスパゲッティを食べたこともある。そのときが、サチコがロバに会った初めての時だったが、サチコはロバの存在にとても驚いていた。ロバが二本足で立ったり、喋ったりすることができるということを知らなかったそうだ。文房具屋で色紙を買ってきて、蹄形をつけてもらったほどだ。

「ロバって喋ったりしないのかと思いました。」サチコは言った。

「ある種のロバはしないけどね。まあ、たいていのロバは喋るよ。」ロバは自慢げに言った。

「ロバの王様なんですよねえ?」

「そう。今は、こんな顔だけど、本当はもっと素敵にかっこいい姿なんだよ。」

「そうなんですかあ。ロバの王様って、どういう仕事をするんですかあ?」

「うん?国民の幸せと国の繁栄と安泰のために、いろいろ法律をつくったり、近隣国と平和条約を結んだり、まあ、いろいろだよ。主に政治だね。」

「へええ。すごいんですねええ。ねえねえ。ヤリイカ姫のお父さんも王様だよねえ?」サチコはヤリイカ姫に聞いた。

「うん。そうだよ。ヤリイカ国の王様。」ヤリイカ姫はタラコスパゲッティーを口に運びながら答えた。

「ヤリイカ姫のお父さんも、政治をするのお?」

「いんや。ヤリイカ国では、政治は政治家がするんだよ。」ヤリイカ姫は器用にフォークとスプーンを使ってすごい早さでスパゲッティーを食べた。

「それじゃ、王様の仕事は?」

「王様の仕事はね、幸せに生きることだよ。」

「なにそれー。なんか、楽そうだねええ。いいなー。」

「いやあ、幸せに生きるのもなかなか難しいよ。」

「そうなのお?」

「そうだよ。方法を間違えて廃人になっちゃった人もいるし、考えすぎて発狂しちゃった人もけっこう多いんだよ。私のひいおじいちゃんも頭が変になって家出して消息不明になっちゃったらしいしね。」ヤリイカ姫のタラコスパゲッティーは、もう残り一口になっていた。

「ふううん。幸せになるなんて簡単そうだけどねえ。王様だったらお金持ちだろうし。」

「うーん。でも、自分が幸せになるためには周りのみんなも幸せじゃなきゃいけないじゃない?」

「周りの人は、関係ないよ。俺の幸せは俺個人の内面的な問題だもの。」ロバが口を挟んだ。

「そうだよお。幸せって、仕事に追われたりしないで、好きなことできる時間がたくさんあって、欲しい物がなんでも買えて、美味しいものが食べれて、温泉に行けて、美味しいお酒が飲めて、楽しい友達がたくさんいることじゃない?」

「うーん。そうかもねー。あー、タラコスパゲッティーおいしかったー。あ、デザートなんか食べる?私、お腹いっぱいだけど、ラズベリータルト食べちゃおうかなー。」

「もおおお、ヤリイカ姫全然人の話聞いてないねえ。あ、でもあたしもデザート食べる。えーと、パンナコッタがいいかなああ。ロバさんはどおしますう?」

「俺は、エスプレッソにするよ。」ロバは甘いものが嫌いだった。

 

 「福羽駅ー。福羽駅ー。電車とホームの間、大きく開いておりますので、お気をつけてお降りください。」ちらほらと何人かの人が降りるのに混じって、キヨシも電車をゆっくりと降りた。キヨシは大学の授業の帰りだった。毎週木曜日は、一時限目しか授業をとっていなかったので電車がキヨシの住んでいるアパートの最寄り駅の福羽駅に着いてもまだ午前中だった。(パンを買って帰ろうかな。)朝食を食べないで家を出たのでおなかが空いていた。

 アパートのすぐ近くに「ミュンタ」というキヨシがよく行く小さなパン屋があった。店主らしき小柄な頬っぺたの真っ赤なおじいさんがいつもにこにこしていてとてもよい雰囲気で、パンもまあまあ美味しく、キヨシが気に入っている店のひとつだった。そこには、ヤリイカ姫の友達がバイトしていた。もうずいぶん長いのではないだろうか。キヨシが初めてこの店に来た時からいる。

 その女の子はサッチャンという名前だということはヤリイカ姫から聞いていたが、詳しいことは知らなかった。レジをやっていることも多かったが、ガラス張りで見えるようになっている店の奥でパンを作っていることもあった。明るくて気さくそうな女の子で、感じがよく、手首がすごく太かった。その太さは、キヨシが初めて「ミュンタ」に来たときに一番に印象に残ったほどのものだった。わりと背の高い少しぽっちゃりとした体型だったが、腕は明らかに筋肉で太くなっていた。パンをこねたりするのに力を使うのだろうか。分厚い筋肉が女性特有の柔らかい脂肪で覆われているようで、白くたくましいきれいな腕だった。

キヨシが店にはいると、もうすぐ昼だということもあり、狭い店で何人かのお客さんがサンドイッチなどの調理パンを買っていた。レジには短い列ができていてレジを打っているのはサッチャンだった。慣れた手つきで弾むようなリズムでレジを打っていた。キヨシもピロシキとオニオンブレッド(チーズ入り。)と黒糖ベーグルと紙パックの野菜ジュースをプラスチックの白いトレイに乗せて列の最後尾に並んだ。前には、わりと背の高い男が10円のパンの耳がぎっちり詰まった袋を持って並んでいた。後姿なので顔は見えないが、すこし汚れた服を着て分厚い眼鏡をかけているようだった。パンの耳は10円で大きな袋にたくさん入っていて、なかなか美味しそうなので、キヨシも何度か買ったことがあるが、恥ずかしくてそれだけを買うことはできなかった。いつも、そんなに食べたくないカレーパンや菓子パンなんかを一緒に買っていた。キヨシは堂々とパンの耳だけを持って前に並んでいる男を尊敬した。

「ありがとうございましたああ。お次のお客さま、どうぞおお。」そう言われて、前の男がレジの前に立つと、サッチャンは「あ。」と小さく言って「店長!あのお客様がまたいらっしゃいましたけどおお。」と、店の奥に向かって叫んだ。

 すると、店の奥から店長がいつもと同じ真っ赤な頬っぺたとにこにこ顔で、手を拭きながら現れた。

「大丈夫ですよ。いつもと同じようにお売りしてさしあげなさい。」やさしい声で店長は言い、軽く店内を見渡してお客さんに会釈をすると、また、店の奥に戻っていった。

「はああい。」と言って、サッチャンがパンの耳の入った袋を、さらに「ミュンタ」のロゴが入った茶色い紙袋に入れ、「ええと、10円ですけど・・・。」と控えめに言った。すると、男は「うむ。」と言って、ジャケットのポケットから錆びた小さな丸い缶を取り出した。中に小銭が入っているのか、じゃらじゃらと鳴るその缶をレジ台の上に置き、ゆっくりと蓋を開けると、中には色とりどりのボタンが入っていた。

「ひとつ、取っていいんですねえ?」とサッチャンが言うと、男は無言で頷いた。

 サッチャンは2、3秒迷ってから穴が二つついている綺麗な白い貝でできたボタンを取り出した。

「これをいただいてもいいですかあ?」とサッチャンが言うと、男はもう一度頷いて、缶の蓋を閉じると丁寧にジャケットのポケットにいれて、パンの入った紙袋を持ち出口のほうに歩いていった。「ありがとうございましたー。」サッチャンの声が店に響いた。

男が横を通り過ぎるとき、さりげなくキヨシが男の顔を覗き見ると、眼鏡をかけ服を着ていたからすぐには分からなかったものの、ピンと撥ねたひげとどこを見ているのかわからない視線は、まぎれもなく森の中で地面に埋まっていたあの男だった。男は扉を開け、ゆったりとした態度で外に出て行った。扉に付いている鈴がちりりんと鳴った。

「お次のお客様どうぞー。」言われてキヨシは自分の持っていたトレイをレジ台の上に置いた。

 パンは、天気が良かったので家で食べないで公園のベンチに座って食べた。

 

昼食の合図の鈴の音を聞き、食卓についたロバは音を立てて椅子をひきずり、心地よく座れるよう椅子の位置を調節した。

 テーブルの上には青いガラスのボトルに入れられた水と、茶色の丸いパンと、緑色のブロッコリーのポタージュスープがあった。

「手は洗った?」ヤリイカ姫が聞いた。

「もちろん、洗ったよ。」ロバは静かに答えた。

「それじゃあ、お祈りをしましょう。」ヤリイカ姫は礼儀正しく言った。「ただし、おなかが空いたから簡単バージョンで。」

 二人は真面目に、けれどもてっとりばやくお祈りをした。

 お祈り(簡単)を終えると、二人は声を合わせて「いただきまーす。」と大きな声で言ってから食べ始めた。簡単だけれど、とても美味しい昼食だった。

 食事の後、緑茶を飲み一休みして簡単にお皿を洗うと、ヤリイカ姫は図書館へ行く準備を始めた。今日はキヨシと約束をしていた日だった。ロバもついていくことにした。

 ヤリイカ姫はトートバッグに先週借りた五冊の本と、約束していたヤリイカ16世の本を入れ、ロバはよそ行きの靴を履き麻の帽子を被って、二人ともばっちり準備ができると、家をでた。

 ヤリイカ姫の家から図書館に行く道は、ゆるい下り坂になっている。ロバは転ばないように地面を見ながら慎重に歩いた。ヤリイカ姫はトートバッグをぶんぶん振り回して、木靴の音をことこと立てながら歩いた。ふたりは、「丸真ラーメン」の前を通り過ぎた。「丸真ラーメン」はあんまり美味しくないラーメン屋だ。ヤリイカ姫が通りすがりにちらっと中を覗くと、お昼時なのにひとりも客が入っていなくて、中国風のひげを生やした店主が一人でカウンターに手をついて、テレビのニュース番組を見ていた。

「ここのおやじって、ラーメン運んでくるときスープに親指いれるんだよ。」と、ヤリイカ姫が言った。

「親指のだし入りラーメンだね。」ロバが長いまつげを揺らして答えた。

 公園に着くと、ランドセルをしょった小学生がベンチに座って縦笛を吹いていた。けっこう上手い。学校の音楽の授業でやっているのだろう。もう学校は終わったのだろうか。中世の音楽みたいだったが、ヤリイカ姫もロバも曲名は知らなかった。図書館の前の水が枯れた噴水の端にねずみ色の犬を連れた小さなおばあさんが、だぶだぶの白いジャンパーを着て座っていた。巾着袋の中からビスケットを取り出すと、半分に割って犬に食べさせた。犬は旨そうにしゃくしゃくと音を立てて食べた。おばあさんは残りの半分を自分で食べた。

 図書館は、小さい子どもを連れた主婦でいっぱいだった。窓際には、派手なオレンジ色のシャツを着た明らかに浮浪者の太ったおじさんがソファーに座って写真集を眺めていた。

その隣のソファーには誰も座っていなくて、もうひとつ隣には、スーツを着たサラリーマンらしき男がだらしなく眠っていた。返却カウンターを見ると、ちょうどキヨシが表紙に変わった風見鶏の写真がついている大きな本を返しているところだった。延滞して借りていたらしく、謝りながら返していた。

「や。キヨシ君。」と呼びかけるとキヨシは振り向いてヤリイカ姫を見て微笑んでから、ロバを見た。

「お。ヤリイカ姫。おはよう。ああ。あなたがロバですね。こんにちは。話はヤリイカ姫から聞きました。山野キヨシといいます。」キヨシは丁寧に挨拶をした。

「ああ。どうも。俺、ロバ。キヨシ君のことは何回かヤリイカ姫から聞いたよ。よろしく。」ロバは愛想良く挨拶をした。

「どうですか?呪いのほうは?」キヨシは聞いた。銭湯の前でヤリイカ姫から話を聞いたときから、ときどきロバの呪いのことが気になっていたのだ。

「んー。まだ、解けないねえ。なかなか難しいね。」

「キヨシ君、本、もって来たよ。」ヤリイカ姫はトートバッグから布張りの本を取り出した。

「これかー。なんか古そうな本だね。『ヤリイカ16世』っていうタイトルか。もう読んだ?」キヨシは本を手渡されて、ぱらぱらとめくりながら言った。古い本の匂いがした。

「んー。ごめんね。実はまだ半分くらいしか読んでないんだ。けっこう読むのに時間かかるの。あ、でも貸したげよっか?」

「あ。まだ、読み終わってないんだ。それじゃ、読み終わってからでいいよ。」本を返しながらキヨシは言った。「で、どんなこと書いてある?」

「うん。ちょっと座って良い?」と言って、ヤリイカ姫は椅子に腰掛けた。キヨシもヤリイカ姫の正面の椅子に座った。ロバは、ヤリイカ姫の隣に座って新聞を読んでいる。

「ヤリイカ16世は、幸せになれる薬を研究していた人みたいなんだ。」ヤリイカ姫は言った。「この本は、研究の助手をしていたカラマールという人が書いた本なんだけど、16世の研究にかける情熱は、そうとうのものだったらしいよ。実験も動物を使ったりもしてたみたいだけど、自分でもずいぶんいろんな薬を飲んでいたみたい。」

「ふーん。幸せになれる薬って、どんなものなんだろうね。」

「えーとね、まだ途中までしか読んでないから、ちゃんと説明できないんだけど、けっこういろんな方向から幸せを追及しようとしてたみたい。たとえば、素晴らしく美しい幻覚が見えるような薬とか、リラックスした気分になれるような薬とか、そういうものもあるし、眼鏡の曇りが一瞬で消える薬とか、錆びついたドアの滑りがよくなる薬とか、肩の凝りがとれる薬とかも作ってたみたい。」

「ほんとにいろいろな方向からの追求の仕方だねえ。」

「で、なかでも一番研究に熱中してた薬が、不老不死の薬なんだって。」

「へえ。けっこうスゴイひとなんだね。で、完成したの?」

「そこまでは、まだ読んでないんだ。」そう言ってヤリイカ姫は、本の真ん中あたりをぱらぱらとめくった。

「そういえばさ、あのおっさん、この前また会ったよ。」キヨシは、思い出して言った。

「ええ!ほんとー。また植物になってた?」目を輝かせてヤリイカ姫は言った。

「いや、パンの耳買ってた。『ミュンタ』で。」

「ははは。ほんとー。サッチャンのバイトしてる店じゃない。」

「うん。サッチャン。その子がレジやってたよ。しかも、あのおじさん、お金の代わりにボタンを払ってたよ。」

「うそ。すごいねえ。ボタンでパンの耳買えるんだ。こんど私もやろうかな。」

「・・・いやあ、なんか特別に許されてるかんじだったけど・・・。」

「面白いねえ。また、来ないかな。」

「来るんじゃないかな。けっこう何度も来てるような感じだったよ。」

「そういえば、サッチャン、最近面白いお客さんが来るって、ちらっと言ってたなあ。」

 

家に帰る途中、キヨシは商店街に寄って夕飯のためのハムカツと明日の朝飲む牛乳を買うことにした。太陽が沈む前のうすぼんやりと光る空が綺麗だった。

商店街は混んでいる時間帯で、いろいろな年齢層の主婦たちがより安い商品を求めてゾンビのようにさまよい歩いていた。八百屋のおじさんが、白菜が安いということをしわがれたよく通る声で何度も繰り返すのが商店街に響いた。

八百屋を通り過ぎた酒屋の前あたりで、目立つ冠をかぶったヤリイカ姫が帆布の買い物袋から葱をはみださせて歩いているのを見つけた。

キヨシが声をかけると、ヤリイカ姫は嬉しそうに近づいてきた。

「このまえの本、読み終わったよ。」ヤリイカ姫は言った。

「ほんと?どうだった?」

「いろいろ、わかったよ。ヤリイカ16世は42歳の春に、不老不死の薬を完成させたと助手に言っているの。その日の夜、自らその薬を飲み干したヤリイカ16世は、その場で床に崩れ落ちて丸三日間昏睡状態になり、目覚めたとき最初に発した言葉が『ガオー』だったらしいよ。自分がライオンだと思い込んでいたんだって。完全に発狂していたの。その後10日間の間に、コウモリになったり、マレーバクになったり、オーブントースターになったり、」ヤリイカ姫はキヨシの顔を見て言った。「植物にもなったらしいよ。」

「え?」

「で、いろいろなものになったと思い込んだ末、風になったと言って城から飛び出して、それっきり。」

「じゃあ、不老不死の薬は失敗したんだ?」

「そうとも言い切れないよ。不老不死にはなるけれど、発狂するという副作用があったのかもしれない。」

「そうか。じゃあ、もし、その薬が成功していたのなら、僕が会ったおじさんは本当にヤリイカ16世かもね。」

「薬のおかげで年をとっていなかったらね。・・・でも、多分きっとそうだと思う。私はね。」

「狂ったまま永遠に生きていくのかな。」

「さあ。」ヤリイカ姫は肩をすくめた。「そうかもね。」

「そうかあ・・・。」キヨシは夕日に照らされて朱色に光る商店街の白い壁を見た。

「あとね、今日茄子が安かったから、キヨシ君に一本あげるよ。きっと美味しいよ。トマス・アクィナスは嫁に食わすなってね。それじゃあね。」と謎の言葉を残しスキップして、ヤリイカ姫は乾物屋に入っていた。後に残されたキヨシは、渡された茄子を握り締めて肉屋に向かった。

 茄子は網で焼いて、醤油と生姜で食べた。確かに美味しかった。

 

 ロバは公園のベンチに座ってため息をついた。もうこの街で誰かに呪いを解いてもらうのは不可能だと感じていた。昔の素敵にかっこいい姿には二度と戻れないと思うと悲しくなったが、反面、このださい姿にも慣れつつあった。もうこのままでいいのではないのだろうか。ヤリイカ姫にはずいぶん迷惑をかけてしまったが。

足元では、アリの行列が蛾の死体に群れていた。

「ため息をひとつつくと、ひとつ幸せが逃げていくぞ。」目の前で声がした。顔を上げると分厚い眼鏡をかけてピンと撥ねた口髭を生やした背の高い男が立っていた。

「あなたは・・・もしかして・・・ヤリイカ16世・・・。」

「そう。私はヤリイカ16世だよ。」

「森の中で植物になっていたと聞いたけど。」

「そう。この前までな。だが、それももう辞めたよ。なぜだか分かるかね?」

「いや・・・。わかんないけど。」

「寒いからだよ!こんなくそ寒い中裸でじっとしているなんてアホみたいだからだ。」

「あなたは狂ってるの?けっこうまともそうに見えるけど。」ロバは聞いた。

「けっこうな。けっこう狂ってる。ときどき完全に意識が混濁するが、今は割とまともだ。あ。おい、見たまえ。私のジャケットのポケットに一週間前に買ったパンの耳が入っているのを見つけたぞ。すこし黒と緑のカビがついているけど大丈夫だろう。どれ。ちょっと食べてみよう。」と言って、ヤリイカ16世はパンの耳を食べた。「ん。ちょっと酸っぱくておいしい。君も食べるかね?」

「いや、俺はお腹弱いし。」

「そうか。残念だな。旨いのに。もぐもぐ。ああ美味しい。それにしても、最近かなり寒くなってきたなあ。」

「そうだね。」確かに寒い。鼻の先が冷える。

「私はもうちょっと南の方に行くことにしよう。腹ごしらえもしたことだし。ここは寒すぎる。」

「南のほうに、何があるの?」

「楽園だよ。地上の楽園があるのだよ。君も行きたいかね?」

「俺も行くよ。」ロバは立ち上がった。

 冷たい風がロバの長い耳を微かに揺らした。街は夕暮に近づいていた。