村長さんの家

                                                     田中 六大

 

 

 

図書館には、よく行きます。お金はないけれど時間があるような午後1時ごろに、公園の近くの図書館までぶらぶらと歩いていきます。

 今日も、いつもと同じようにお金は全然ないけど、大学の授業もなく時間はたっぷりあるので、図書館へ向かいました。よく晴れた気持ちのいい日です。風が、静かに桜の葉を揺らしています。クローバーの葉の緑が目に心地よいです。オオイヌノフグリの小さな青い花が、芝生のカーペットの上に散らばっています。最悪な名前に似つかない、とてもかわいい花です。

 図書館は市民館の中にあります。市民館は赤茶色のレンガでできているそこそこ大きい建物ですが、なぜか意図がはっきりしない装飾がたくさんあります。まず、市民館に近づくと、いろんな場所に軟体動物や昆虫の彫刻があることに気付きます。雨どいの横にはカタツムリが、門の左右脇にはカマキリとバッタが、屋根の上にはトンボがいます。窓の形がデザイン化された蛸であるのにも、最近気付きました。屋根は緑色でパラソルチョコの形をしています。よおく見ると、本当は黒い屋根で苔がびっしり生えているせいで緑色にみえるようです。小さな門がペンキで金色に塗られていて、蔦だとか天使だとかの過剰な飾りがついています。門の横にぼろっちい看板があって、この市民館の歴史などが書いてあります。それによると、この変な建物は伏黒忠彦(1889―1971)というアールヌーヴォーに影響を受けた建築家が、六十歳のときに設計したものだということが分かります。

 全体的に見ると、チープで統一性がない西洋のお城のような雰囲気です。僕の住んでいる町には、まったく似合わない市民館です。いや、こんな市民館は世界中のどんな町にあっても似合わないでしょう。でも、僕はわりと気に入っています。

 図書館は地下一階のトイレの横にあります。ほかにも部屋がたくさんあって、いろいろな施設やサービスがあるようですが、ほとんど行ったことがありません。一回なんだかよく分からない部屋に入ってみたことがあるのですが、とても明るい顔をした若い女の人が受付にいて「こんにちわあああ」とか異様にでかい声で言うので、おびえて逃げるように部屋を出てしまいました。どうやら老人用の施設だったようで、ぼんやりと宙をみつめている老人が何人か、うろうろしたり、すごろくをしたりしていました。

 それ以来、なんだか知らない部屋に入るのが怖くて市民館へ行ったときは図書館へ直行です。

 図書館は、あまり広くありませんが人も少ないので快適です。晴れた日は大きな窓の近くにあるソファーに座れるといい気分なのですが、たいてい汚い服を着た臭い老人が座っているので座れません。臭くて近くに寄ることもできません。

 老人は、村長さんです。

 ひと目見れば分かります。なぜなら、胸に「村長」と鉛筆で書いてある紙を安全ピンで留めているからです。

 今日も、村長さんは陽があたり外が良く見える一番良い席に座っていました。「東欧の美しい風景」という写真集を、ぼんやりと眺めています。足元に置いてあるおおきな紙袋から、汚れすぎて元の色がまったく分からない犬のぬいぐるみと、毛布が頭をだしています。オレンジ色のTシャツからはみでているでっぷりとしたお腹は、なかなか村長の風格があります。

「お、おにいちゃん、学生さん?タ、タタ、タバコ持ってる?」

 図書館に入ってきた僕を目ざとく見つけると、ふらふらと近づいてきて外斜視の目で僕を見ていいました。会うたびに、同じことを聞いてきます。

「いや、タバコ吸わないんス」

 僕も、いつもと同じように答えました。

「あ、そう。」すらりと言って、村長さんはもといた席にもどり、また本を眺め始めました。

 僕は、ぐるりと図書館を見渡しました。歳も性別もまちまちのいろんなひとがいます。学校の制服を着た眼鏡の女の子が、本棚の前で詩集を立ち読みしています。スーツを着たサラリーマン風の男が、机の前で熱心になにかを読みながら、おそらく無意識に鼻くそを食べています。平日の昼間にみなさん何をしているのでしょう。みんなぼんやりと、うとうとして生きているようです。

 僕は手近なところから、あんまり内容がなくて雰囲気の良い雑誌を取って、なるべく村長さんから遠い椅子に座りました(臭いから)。

 雑誌はハワイ特集でした。綺麗なアロハシャツの写真が何枚も載っています。強い日差しの中、椰子の木の陰で、ふとったおじさんがその体には小さすぎるウクレレを、にこにこして弾いています。なんだかハワイに行くのもいいなあ、という気分になり次のページをめくると、「ハワイツアー六日間六万八千円!!!」という広告がありました。僕はため息をつきました。

「高野君。何、ため息ついてんの?」

中学のときの同級生の戸部靖子が、突然声をかけてきました。戸部さんは、僕の家からわりと近いところに住んでいるので、図書館や街中をうろうろしているところをよく見かけます。

「ああ。戸部さん。えーと、ハワイが・・・」

「ハワイ?」

「いや、ハワイのことはどうでもいいんだけど・・・」

「何言ってんの?はっきりしないやつだな」と、戸部さんはちょっと短気に言いました。

「いやいや、まあまあ」などと、さらにはっきりしない態度で僕が言っていると、

「げふうううう」と、向こうのほうで村長さんが臭そうなげっぷをする音が、静まり返った図書館中に響きました。

 戸部さんは、村長さんのほうをじっと見て言いました。

「村長さん、図書館によくいるね」

「ああ。居心地がいいんじゃない?」

「高野君、村長さんの家、見たことある?」

「え?あの人、家あるの?ホームレスでしょ?」

「いや。あの人ね、家があるんだよ」

「へー。知らなかったな。戸部さん、なんで知ってるの?」と、僕が聞くと、戸部さんは「うん・・・」と言って、じっと村長さんを見たまま、しばらくなにか考えているようでした。そして、おもむろに

「あのさ、いまから一緒に村長さんの家に行ってみない?」と、言いました。

「ええっ?村長さんの家に・・・?・・・えー。どうしようかな・・・」

「やだ?」

「いや、興味はあるけどさ・・・」

「これからなんか予定がある?」

「いや、予定はいつもないけど・・・」

「はっきりしないなー!」

「わかったよ。行くよ。行く行く。でも、ちょっとその前に本を2、3冊借りてきてもいい?」

「うん。借りてきなよ。ここで待ってるから。」にやりと笑って戸部さんは、近くの椅子にどかっと座りました。

僕は、本棚のほうにとろとろ歩いていきました。本棚の前で本を選んでいると、なんだかトイレに行きたいような気分になりましたが、気のせいだということにして本を選びつづけました。僕が手に取ったのは、「蟻でも弾ける簡単ウクレレ」(森下由里著)と、「ヴィンテージ・アロハの世界」(池田章著)と、「海外旅行英会話」(田中浩正著)と、「大正暗黒小説集」(出口縁編)でした。

 ちょっと考えた後、「海外旅行英会話」を本棚に戻して「お酒の席で使える面白ジョーク集」(加賀眞理子著)を借りることにしました。ちらっと戸部さんのほうを見ると、戸部さんはさっき僕が座っていた椅子に移動して、さっき僕が読んでいた雑誌を読んでいました。

カウンターに行って、本を借りる手続きを済ませました。カウンターのおばさんは、右目に眼帯をして、ごほごほと咳き込んでいる、やけに不健康そうな人です。さっき病院から逃げてきたという感じです。

「・・・五月三日までにお返しください・・・」と、病弱なゾンビのような声で言って、本を渡してくれました。延滞すると呪われそうで怖いので、なるべく早く返そうと心の中で誓いました。

 けっこう熱心に雑誌を読みふけっている戸部さんの後ろに立って

「借りてきたよ。」と、僕が戸部さんの後頭部に向かって言いました。

「うん。ちょっとまって・・・。私もこの雑誌借りようかな・・・」と雑誌を読みながら戸部さんは言いました。

「最新号の雑誌は借りられないんだよ」

「え?そうなんだ・・・。古いのは借りれるの?・・・でも、古いの借りてもね・・・。・・・じゃあ、いいや・・・」

 戸部さんは雑誌を棚にばさっと雑に置いてから、「行こうよ」という顔をして大きく手招きすると、すたすたと図書館の出口に歩いていきました。僕は雑誌を丁寧にもとの位置に戻してから、小走りで戸部さんの後を追いました。

 図書館を出ると、空模様がすこし怪しくなっていました。灰色の雲がどこからかもくもくと出てきていて、今にも雨が降りそうです。風が冷たくなっています。

「雨が降るかなあ」戸部さんに追いついた僕は、肩を並べて歩きながら、空を見て言いました。

「降りそうだね」戸部さんは、前を向いたまま言いました。

「村長さんの家、遠いの?」

「いや、歩いて十分くらいだよ。銀杏並木の大通りのさ、文房具屋あるでしょ?」

「ああ。ばあさんが最近死んだ?」

「そう。そこの角を曲がって細い通りをしばらく真っ直ぐ歩くと、左手に背の高いレンガの塀で囲まれた大きい敷地があるの知ってる?」

「いや、知らないな。そんなのあったっけ?」

「あるんだよ。村長さんの家は、その中にあるみたいなんだけどね」

「どんな家?」

「まあ、とりあえず行ってみようよ。」僕の目を見て微笑んで、戸部さんは言いました。

「うん」

 目の前で寝ていた黒猫が、僕たちに気付いて、目を緑色に光らせてすばやく茂みの中に逃げていきました。僕は黒猫が前を横切ると縁起が悪いなんて、全然うそだと思います。むしろ、黒猫が横切ると良いことが起こるような気が、いつもします。

すこしのあいだ二人とも黙って歩き続けました。ぼくは戸部さんに「バイトの調子はどう?」と、聞こうと思いました。戸部さんは、高校を卒業した後は大学に行かないで、ずっとアルバイトをしています。別に家が貧しいというわけでもないようですが、特に大学に行きたいとも思わないので、そうしているようです。

 しかし、僕より先に戸部さんが口を開きました。

「ナルニア国ものがたり、知ってる?」

「え?」

「ナルニア国ものがたり」

「知らない」

「児童文学だけど、面白いよ」

「ふーん」

「私、ちっちゃいとき読んだんだけど、また読みたくなって、この前、図書館に探しに行ったんだ。でね、見つけたんだけど、ナルニア国ものがたりって全部で七冊あるのに、六冊しか置いてないの。第一巻の『ライオンと魔女』っていうのが見つからないんだ。読みたいんだけど、一巻からじゃないと読む気がしないでしょ。だから、貸し出し中なのかなと思って、一週間くらいしてからまた図書館にいったんだけど、まだ、ないんだよね。で、三ヶ月間くらいのあいだ、何度か図書館に行ったんだけど、一回もあったことがなくて」

「盗まれちゃったのかもね」

「私もそう思ってさ、やれやれしょうがないから一巻だけは買って読むか、と思って本屋に買いに行ったんだよ。で、買って帰る途中、図書館の前の広場を通ったときに、後ろから腐ったチーズみたいな臭いがしてね、くっさーと思って振り返ったら、村長さんがいたんだよ」

「あー。あそこらへんよく、うろうろしてるよね」

「で、すっごい顔近づけて『おねーちゃん、タバコ持ってる?』とか聞いてくるんだー。もう、めちゃくちゃ臭くて失神しそうになりながら、すごい勢いで首を横に振ったんだけど」

「ははは。ほんと、臭いよね。」

「その時にね、ちらっと村長さんが持ってる紙袋に目をやったら、なんと、図書館のマークがついてるナルニアの一巻が入っててさー」

「へー。あのひと子どもの本、読むんだ」

「うん。私も不思議に思ってさ。というより、ちょうど本屋で買ってきたばっかりだったから、頭にきちゃって。こいつが盗んだのかよーって。」

「なんか言ったの?」

「ううん。言わない。・・・だけど、尾行した」にやっと笑って戸部さんは言いました。

「へー。後をつけたんだ。臭そー。なんで、尾行したの?」

「なんか、謎じゃない。ナルニア読む浮浪者の老人なんて。それに、くやしくってさ。」

「ふーん。それで?」

「それでね、村長さん、ちょうど私たちが今来た道をのろのろのろのろ歩いてきてさー。ああ、ほら、そこの文房具屋の角を曲がったんだよ」

 僕たちは、文房具屋「銀風堂」の前まで来ていました。店先には四十年位前に流行ったような、レトロなデザインのノートと、ビニールの縄跳びが埃をかぶって置いてあります。この店の商品は、母に言わせると、母が子どものときから全く変わっていないそうで、いったいどこから仕入れているのか本当に謎です。

 眼鏡をかけた若い女の店員が、レジの前に座って頬杖をついて、飛んでいるハエを見つめていました。

「ここのおばあさん、死んじゃったね。」だらしなく垂れ下がっている縄跳びを横目で見ながら僕が言いました。

「うん。死んじゃったね。ねえ、ここのおばあさん、好きだった?」阿呆みたいに口をあけてハエを見つめている店員をみながら、戸部さんが言いました。

「うーん。まあ、好きだったかな・・・戸部さんは?」

「私は、普通だった」

「ああ・・・そう」

 特にそれ以上会話も発展せず、僕たちは文房具屋の角を曲がり、細い一本道に入りました。細いといっても、いままで歩いていた銀杏並木の大通りを通ってきたから、そう感じるだけで、実際はそれほどでもありません。僕と戸部さんが横一列になって歩いて、その横をさらに自転車が通れるくらいです。でも、自動車は、きっと通れないでしょう。そもそも、こんな辺鄙な道を走る自動車があるのかどうか疑問ですが。

日がさらに陰ったのか、道の両側にある異様に高い塀と、その向こう側に並ぶさらに背の高いもみの木のせいなのか、道に入ると少し暗くなったように感じました。

三毛猫が塀の上を、すいすい歩いていきます。(今日は猫をよく見るな。)と、僕は思いました。

「猫、多いね」戸部さんがいいました。

「うん」

「今、私、バイトでレストランの壁に猫の絵を描いてる。」

「へー。面白いね。バイト、楽しい?」

「まあね。でも、上司がやだ」

「なんで?」

「なんかね、四十歳くらいのおっさんなんだけど、ひとりでご飯食べるのが淋しいらしくって、夜バイトが終わると必ず飲みに誘われるんだよね。ほかのバイトの女の子が何人か一緒にいるから、まだ良いけど。なんか、きもい事言ってくるし。」

「へー。やだね」

「まあね。でも、もう、てきとーに辞めるけどね。高野君は?大学慣れた?」

「うん。楽しいよ。美術系だから、絵描いてるだけだし」

「彼女、できた?」にこにこして、戸部さんは言いました。

「僕の行ってる大学は女の子のほうが多いから、友達にはなれたけど、全然彼女はできないね。残念ながら。」

「残念だね。高野君、顔も性格も最低だけど、料理が上手だから、そこらへんアピールしたほうがいいよ」にやにやして戸部さんがいいました。

「すばらしいアドバイスをどうもありがとう」

「どういたしまして」と、戸部さんはさらににやにやしました。

 僕は急に、高校のときに戸部さんが、すごく暗い声で突然電話してきたことを思い出しました。そのとき戸部さんが僕に電話してきたのは、初めてでしたし、とても意外でした。なんだかわけがわからないけど異様に暗い声だったので、一応、なにか抽象的で前向きなアドバイスをしたような記憶があります。今の戸部さんの顔を見ると、あの時の暗い声が思い出せないくらい陽気な顔をしています。

戸部さんは、しばらくにやにやして歩いていましたが、突然言いました。

「あのさー。私も来年から、美術の学校行こうかなと思ってるんだ」

「へー。大学受験するの?」

「いや、専門学校に行く」

「大学は行かないの?」

「うん・・・。大学は・・・」と言いかけて戸部さんは、道の左手にずっと続いている古いレンガの塀にくっついた小さな木の扉に気づくと、「あ。到着しました。」と言いました。

「この扉が?」

「うん。多分、村長さんの家の扉」

「多分?」

「うん。あのね。私が村長さんの後をついていったら、村長さん、この扉の前で立ち止まって、ちょっと秘密めいたかんじで左右を確認したの」

「そのときは見つからなかったんだ?」

「うん。かなり離れて尾行してたからね。臭いから」

「それで?」

「それでね、村長さん、紙袋からナルニア国ものがたり一巻を取り出して、開いたんだ。こんなところで、いきなり読書か?って思ったら違ってさ。本のなかに大きな真鍮製の鍵が埋め込まれてるのを、取り出したんだよ。びっくりしたよ。よく、映画とかで聖書のページをくり抜いて、その中にピストルが入ってることとかあるでしょ?そんな感じ。あんなの現実にやる人いるんだね。ページをくり抜くなんて、そうとう大変だろうにね」

「すっごいね。そんなの初めて聞いた」

「私だって、初めて見たよ。その鍵で、村長さん、この木の扉開けて中に入っていったんだ。だから、多分、ここ村長さんの家だと思う」

「いや、その怪しさからすると、ここはなにか秘密組織の集会場かもね」

「かもね」

「で、その後は、どうなったの?」

「え?それだけ。私は家に帰ってナルニア国ものがたり読んで寝た」

「なんだ。中を覗いてみたりしなかったの?」

「だって、扉閉まってたし」

「鍵かけなかったかもしれないじゃん」

「鍵かけてたよ。中でがちゃがちゃ音がしたもん」

「鍵穴は覗いたりしなかったの?」

「だめ。実は覗いてみたけど、中が見えないようになってた。」

「じゃあ、中のことは全然分からないんだ」

「それがね、私もあきらめきれなくって、村長さんが扉の中に入ってからも、しばらく扉の前をうろうろしてたの。そしたら、中で子どもみたいな楽しそうな笑い声と、鳥のさえずるとても綺麗な音が聞こえたよ」

「そうすると、中では楽しいことが起こっていて、しかも、綺麗な声で鳴く鳥がいるんだ」

「たぶんね」

「でも、僕たちは中に入れないんだ」

「そうだね」

「すごく中を見たい」

「私も」

「でも、見られない」

「そう。・・・でも、もしかしたら・・・」と小さい声で戸部さんが言いました。

「え?」

「・・・もしかしたら、今日は鍵がかかってないかも」

「え?なんで?」

「なんとなく。そんな気がする」

「でも、さっき村長さん図書館にいたよ」

「うん。だけど、今日は偶然鍵をかけ忘れたかも」

「偶然」

「うん。偶然忘れたかも」

 僕は、扉を見てみました。扉は古い塗装がはげた木でできていて、ところどころに細かい彫刻がしてあります。とても重そうな頑丈そうな扉です。鍵がかかっていたら、無理にこじ開けることなど絶対にできないでしょう。ノブは真鍮製で柔らかく光っています。使い古された握り心地の良さそうなドアノブです。いままで、どれほどの回数、誰の手によってこのノブは回されたのでしょうか。僕は自然に手を触れました。

 冷たい。普通の単なる金属の冷たさですが、今は、なぜか必要以上に冷たい気がします。

 僕は、息をのんで、思い切ってノブを回しました。

 ガチッ。

 ノブは回らず、なにかにひっかかったように止まりました。

「鍵、かかってるよ」僕は、戸部さんを見て言いました。

「あれ・・・。そっか・・・」戸部さんも、ドアノブをガチャガチャやりながら言いました。

「勘がはずれたね」僕は小さく笑って言いました。

「はは。まあ、私でもそういうときもあるよ」戸部さんも微笑んで言いました。

 僕たちは、しばらく黙って扉を見つめていました。なんだか突然「ガチャ」といって、中から誰かが扉を開きそうな気がしました。

僕は顔を上げて、

「どうする?帰る?」と遠慮がちに聞きました。

「そうだね。帰ろう・・・」戸部さんは、それでも少し名残惜しそうに扉を眺めて言いました。しかし、やがて諦めたような決心したような顔をして「帰ろう」ともう一度言いました。

扉に背を向けて僕たちが歩き始めると同時に

「ピピピルリルリルリ・・・」と、塀の中から澄んだ美しい鳥の声がしました。

「綺麗な声だね」と僕は驚いて言いました。

「うん・・・。綺麗な声だねえ」戸部さんも嬉しそうに言いました。そして、

「中が見れなくって残念だなあ」と、とても残念そうに言いました。

「まあ、そのうち見られるかもよ」

「そうだねえ」

 そう言ってから戸部さんは、道に落ちていたどんぐりを拾いました。それを見て僕は、なんで、こんなところにどんぐりが落ちているのだろう、と思いました。さっきの三毛猫と黒猫が連れ立って塀の上を歩いています。恋人同士だったのかな、と、戸部さんに言おうとしたら、戸部さんはもっとどんぐりを拾おうと地面をじっくり見ながら歩いていて、全然猫のことなど気付かないようでした。

 それから、文房具屋の前に着くまでに戸部さんは五つほどどんぐりを拾いました。文房具屋の中では、さっきの店員が全く同じ姿勢でハエを見つめています。

僕は、その店員を見て図書館の隣にある狭い喫茶店「木製驢馬」のことを思い出しました。

「戸部さん、お茶でも飲んでく?」

「おお?高野君が誘うなんて珍しいねー。雨が降るんじゃない?」

 実際、雨は降りそうでした。

「うるさいな。行かない?」

「行くよ。おごってくれるんでしょう?」嬉しそうに戸部さんは言いました。

「まさか。おごらないよ」

 戸部さんは、「なーんだ」と言ってどんぐりをジャケットのポケットに入れました。でも、僕がおごらないことは、最初から戸部さんも僕も分かっていました。

 僕たちが喫茶店に向かう途中、村長さんとすれちがいました。村長さんは、誰かに貰ったタバコをぷかぷかと幸せそうに吸いながら、文房具屋の角を曲がっていきました。